金光教は、江戸時代末期の1859年に、赤沢文治(後の生神金光大神)によって開かれた神道系の宗教です。
もくじ
神様
天地金乃神(てんちかねのかみ)
天地金乃神様の御神体は天地。万物を生かし育む神様です。
生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)
金光教の教祖が天地金乃神様から授けられた御神号。
農業を営んでいた教祖は、家族の死や自身の大病など、相次ぐ苦難の中で天地金乃神様と出会いました。
人間を救い助けたいと思われていた神様の心を知り、信仰を深めていきました。
その後、農業をやめ、人々の願いを神様に祈り、神様の願いを人々に伝える「取次」に専念しました。
教え
金光教にはさまざまな教えがあります。ここでは「天地は語る-金光教教典抄-」より、一部をご紹介します。
引用元: 天地は語る-金光教教典抄-検索 | 金光教Followers
神と人間
天地金乃神は、神、仏をいとわない。神道の身の上も仏教の身の上も、区別なしに守ってやる。神道も仏教も天地の間のものであるから、何派かに派などと、宗旨論をしたり、凝り固まったりするような狭い心を持ってはいけない。心を広く持って、世界を広く考えていかなければいけない。
神へは何でも願え。神は頼まれるのが役である。
生きている間も死んだ後も天と地はわが住みかである。生きても死んでも天地のお世話になることを悟れ。
お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげである。人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。
人間は生き通しが大切である。生き通しとは、死んでから後、人が拝んでくれるようになることである。
人間が神と仲よくする信心である。神を恐れるようにすると信心にならない。神に近寄るようにせよ。
人間の難儀
用心せよ。わが心の鬼(おに)がわが身を責める。
信心とおかげ
心は広く持っておれ。世界は広く考えておれ。世界はわが心にある。
手や口は手水鉢で洗っても、性根は何で洗うのか。実意丁寧の真でなければ洗えまい。
真(しん)にありがたいと思う心は、おかげのはじめである。
信心の実践
神は昼夜も遠い近いも問わない。頼む心にへだてなく祈れ。
大きなことはお願いし、このくらいは構わないということはない。神には、大きいこと小さいことの区別はない。何事にも神のおかげをいただかなければならない。
信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ。
自分が悪かったと得心してお断りを申したら、神は叱ってはくださっても、罰はお当てにならない。すぐにお許しくださる。神は、常に人間がかわいいとの思いでおられるのである。
人間は人間らしくすればよい。何も求めて不思議なことをしなくてもよい。
何事にも、自分でしようとすると無理ができる。神にさせていただく心ですれば、神がさせてくださる。
何事にも無理をするな。我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ。
明日塩辛を食べるからといって、今日から水を飲んで待つわけにはいくまい。取り越し苦労をするな。
信心する者は犬や猫にまで憎まれないようにせよ。また、犬や猫にまでも敵をつくるな。
何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れるな。
痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである。
お札をくださいと願ったところ、「お札はない。お札は人間の目当てにするもので、お札からおかげが出るのではない。神は目には見えないが、そこら辺りいっぱいにおられるので、神の中を分けて通っているようなものである。願うのは壁を目当てに頼んでもよい」と仰せられた。
生神の道
人を一人助ければ、一人の神である。十人助ければ、十人の神である。
生きている時に神になっておかないで、死んで神になれるか。
ある時、金光様の家の麦わらの垣に、だれかが火をつけて焼きかけになっていた。それを見た人が、「金光様、こういうことをする者には罰を当てておやりなさい」と言ったら、「こういうことをする者こそ神に願って、心を直してあげなければならない」と仰せられた。
こころで聴くおはなし
金光教ホームページにある「こころで聴くおはなし」には、金光教のラジオ番組「金光教の時間」のアーカイブがあります。
教会の先生や信者さんの体験談の録音を視聴したり、文字起こしをした記事を読むことができます。